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山川健一さんのつぶやき 8/22分

山川健一さんのつぶやき 8/22分

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今夜も、原発について連続ツイートします。明日から山形なので、数日こういうことができなくなるので。では、よろしくお願いします。

たいへんな事態になったな、とあらためて思う。誰かのツイートへのレスでも書いたが、この頃ぼくは3.11以前に書いた自分の小説のすべてが愛おしい。そこでは、主人公が過酷な死に方をしたとしても、彼の友人や子供は清浄な空気の中に残された。

ひとつの恋愛が終わったとしても、別れた恋人は、きっと別の誰かとこの美しい日本で生きていくのだろう──という安心感があったように思う。

しかし、ただノスタルジックになったり自暴自棄になっても仕方がないので、サバイバルする方法を探さなければならない。その方法は、各人によって──年齢や置かれた状況によって──変わる。

一つだけ共通しているのは、二重生活を送るべきではないかということだ。人はその土地に生まれ、そこの自然に染まり冒され、その土地で死んでいく。太古からぼくらの父祖はそういう営みを繰り返してきた。急に避難しろと言われても事は簡単ではない。

地縁という言葉があるが、人間は「縁」なしに生きていくことができない生き物なのだろう。誰しもが、タペストリーのように織られた複数の複雑な関係の中で生きていく。それを一瞬のうちに切断されると、生きる力を失いかねない。

ぼくは自分が作家として、今後せめて1作でもいいから小説が書けるのだろうか──と、日々自問している。渋谷でも山形でも京都でも、舞台となる愛おしい土地と、美しい織物のような人間関係の存在がなければ物語を紡ぐことなどできっこないからだ。

ぼくが小説を書くためには、放射性物質による汚染が進行するその土地を愛せるかどうかにかかっているのだと思う。そこまで思考が進んだ時に思い出したのが、花田清輝という批評家の楕円の思想という考え方だった。

真円(真ん丸)は中心点が一つだが、楕円は中心点を二つ持つ。そういう楕円のほうが強いのだ──というのが、あまりにも大雑把だがぼくが若い頃に読んだ花田清輝の楕円の思想だ。

今のぼくらこそ、中心点を二つ持つべきではないのだろうか。これまで自分が育まれた土地、それから一時的に避難できる場所。この二つの中心点を持つことでこそ、人は楕円のように逞しく再生しながら生きていくことができる。

経済的に余裕がある人は、たまに海外に旅行に行くのもいいかもしれない。あるいは、九州や北海道に常宿にできそうな民宿を探してもいい。親戚の家を頼れるのなら、それもいい。

そいつはぼくらの新しい移動祝祭日、ムーバブルフェスタである。定住民であることを放棄して、可能な限り動民として生きていく。

これは科学的に証明された話ではないのだが、東電福島の取材に通い、倦怠感や鼻血や下痢や頻尿に悩まされた友人が体験的にこう言っていた。「40日きれいな場所に移ると、これは大人だけだと思いますが、すっかり体調が元に戻りますよ」と。

「移動祝祭日」という小説なら、なんとなく書けそうな気もするのだ。

インターネットがこれだけ発達した時代である。企業も社員に東京本社に「定住」することを強いるのをやめ、月の3分の1ぐいらいはどこか別の場所で働くことを認めればいいのだ。

農業やレストランや、その場所を離れられない仕事の場合は、自主休暇を取る。「中心点を二つ持つ」という発想は、住む場所を二つ持つということだけではなく、職業を二つ持つという可能性も切り開くかもしれない。

誰もが意識的に二重生活を送る。それが大切なのではないかと、ぼくは思うのだ。

問題は、これから人の親になるかもしれない娘や息子にどうやってそういう生活ができるように教えるかということだ。これは、誰しもがそうだろうと思う。自分はそれができても、夫や妻や両親や、学校のある子供達をどうすればいいのか。

西行は「願はくは花の下にて春死なん、その きさらぎの望月のころ」と詠み、実際にその願いを遂げた。ぼくらもやがて迎える最期の時には、どんなに汚染されていようが、もっとも愛おしい場所に帰って横たわればいいのではないだろうか。

たとえば「赤とんぼ」という唄は、こうなってしまってから聴くと涙がこぼれそうになる。日本はたいへんなことになってしまった、取り返しのつかない罪を犯したのだという悔悟の気持ちが、東電幹部や経産省の役人や政治家にあるのだろうか。

朝日新聞と東電の癒着が指摘されている。(http://t.co/az0nWc1

北電とズブズブの関係にある高橋はるみ知事の夫(高橋毅・国際交流基金 参与)は、NHKの財団で役員をやっている。これでは、少なくともNHKは知事と北電の関係を報道することなどできないだろう。

朝日新聞、NHK、共に日本を代表するジャーナリズムのこのテイタラクは目を覆うばかりである。いや、もはやこの国にはジャーナリズムなんて存在しないのだ。さらに民主党が、菅直人首相退陣以降は原発推進に大きく舵を切ることがはっきりした。

彼らの胸には「赤とんぼ」も響かないのだろう。

中心点を二つ持ち「移動祝祭日」を送るぼくらに必要なのは、性格な情報と安全な食料である。マスメディアが死んでしまっている以上、Twitterに頼るしかない。ハッシュタグの「♯okfood」「#ngfood」などは非常に参考になる。

水と食料に関しては、ぼくのような年代の人間と赤ちゃんとではもちろん事情が違う。大人は、とりあえず米と肉に細心の注意を払い、安全な水を確保することが大事だろう。後はあまり神経質になっても鬱々とするばかりだから、気にしないと決める。

この時期に赤ちゃんを抱えているお母さん達は本当にたいへんだろうと思うが、周囲の人間も協力して、安全な粉ミルクと水の情報を正確につかむことが重要だろう。

水と食料に関する様々な情報、東電福島第一の現況に関する情報も、もはやTwitterなしに収集することは不可能である。ここで有効なネットワークを構築し、それを長く維持していかなければならない。

Twitterの監視や規制のことが話題になっているが、ぼくが大切だと思うのは絶対に「自主規制」しないということだ。生きのびるための情報を集めるのは、人間としての最低限の権利──ヒューマン・ライツなのだから。

新聞社やテレビ局のことを批判したが、諸悪の根源はもちろんそれだけではない。大手のスーパーやコンビニは「政府の規制値を守っています」という姿勢だが、冗談ではない。

政府が決めているそれぞれの数値が安全だなどとは、今では誰も思っていない。それをシャアシャアと「規制値を遵守している」というのは、政府とグルになって儲けていると指弾されてしかるべきではないのか。

イオンでもセブンイレブンでも、小田急でも東急でもいいが「独自の厳しい安全基準」を設定しそれを守ってくれるなら、客は殺到するだろう。

かつてダイエーの創業者・中内功が価格の革命を起こしたことはよく知られているが、今求められているのは質の革命である。今のままでは小売業の信頼も失墜しかねない。

じつは今夜は「国家として日本は核を求めた。原子力の平和利用というスローガンを掲げながら核兵器を求めた」という話を書くつもりだったのだが、別の話になってしまった。

原発と核兵器の話は、山形から帰京したらまたツイートします。2時間経ってしまったので、今夜はこれでツイートを終了します。お読みいただき、リツイートしていただき、ありがとうございました。

皆さんにレスを入れられず、心苦しいですが、明日早いのでもう寝ます…って子供みたいですが、おやすみなさい。繰り返しますが、Twitterにおける情報交換が今やぼくらの生命線だと思います。

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