« 2017年9月 | メイン | 2017年11月 »
特攻で亡くなった方々とその家族や恋人に焦点をあてた内容でした。
悲劇としかいいようのない・・・。
でも現実にあったことであり
残された方は今も亡くなった方を思い続けています。
この本にも紹介されている穴沢利夫さんと婚約者の智恵子さんの
お名前は、もう忘れる事はないでしょう。
亡くなった方のすべてに、このような悲しい出来事があったんですよね。
そのすべてを知る術はありませんが、
知る限りの事は、心に刻んでおきたいと思います。
戦争について、今まで積極的に知ることはなかったのですが
知らなきゃいけないなーと思う内容がたくさんありました。
歴史が苦手なので、なかなか頭に入っていかないのですが
知っていく努力をしていきたいと思います。
知れば知るほど、こうするしかなかったのかと
悔しさがこみ上げてきます・・・。
この本で知った事。
・飛行機で飛び立った後、作戦が成功したのか
どうやって調べていたのだろうと思っていたら
(勝手に、後からアメリカ軍の通信を盗み聞きしてるのかと思ってました)
モースル信号で、最期の最期まで状況を伝えていた。
その精神力に驚愕します・・・。
・鳥濱トメさんの娘、礼子さんは「なでしこ隊」として
特攻に出る方々のお世話係をしており、お世話していた方、知り合いの方が
出発される時には、明け方、飛行場で見送り
その足で通信室まで歩き(約2時間)、飛び立っていった方々の消息を確認していたこと。
途中からは、モールス信号を教えてもらっていたので、
自ら聞き取り、最期を確認していた。
・不時着・飛行機の故障などで、生き残った人たちは
再び出撃する場合もあったけれど、
監禁され上官からの罵倒を浴びて、屈辱の日々を送っていた。
終戦後、家に戻ると、すでに葬式は済み、戸籍もなくなっていた方も・・・。
・特攻隊として戦死した方々の大半は、少年飛行兵と学生で招集された人ばかり。
職業軍人は一握りだった。
・パイロットの訓練は厳しく、練習中に死亡する例も多々あったよう。
特攻の母と呼ばれた、鳥濱トメさんのお孫さんが書かれた本です。
苦労続きだったトメさんの生い立ち、
経営していた富屋食堂が軍の指定食堂になり
死にゆく若者たちに、家財道具を売り払ってまで
愛情を注がれていた事。
そして最期の最期まで、戦争で亡くなった方々を思い続けていた事。
こんな方が鹿児島にいらしたとは。
現在、知覧にある知覧特攻平和会館や、
その隣にある観音堂は、トメさんの強い意志がなければ
建てられる事はなかったのですね。
現在、富屋食堂はありませんが
「ホタル館富屋食堂」という、当時の資料が残された資料館があります。
トメさんの直筆、公にできなかった若者の手紙など
貴重なものが展示されてあるようです。
機会をみて、行ってみるつもりです。
最近のコメント