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手作り味噌☆解禁

今年の2月に作った味噌。
半透明の容器に入れていたので
カビが生えているのを確認していました。
あぁ、どうしようと思いつつ
寒くなってから開けよう・・・と放っておきましたcoldsweats01
で、いよいよ今日、開けてみました。
表面にカビがびっしりsweat02
奥まで浸透しているのでは・・・と思いましたが無事でした。
よかったーshine
なかなかおいしいですdelicious

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もみじの東雲の里

雨でしたが、東雲の里に行ってきました。
今回は奥の滝まで歩いてきました。
展望台にも登って。
よく歩きましたhappy01
この山をひとりで開墾したなんて。
すごい方がいらっしゃるshine

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特攻神社と特攻碑公園

出水にある特攻碑公園へ行こうと思い、
駐車場を確認しようと検索したら
近くに特攻神社がある事を知りました。
こちらのサイトが詳しいです。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-izumi.htm
出水には13年くらい住んでいたけれど、神社の存在は知りませんでした。
ゴルフ場が飛行場だった事も、近くの道路が滑走路だった事も
こちらのサイトで初めて知りました。

特攻神社には、関 行男さんが祀られていました。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-seki.htm
昭和19年10月25日、初めて特攻で出撃された方のひとりです。

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特攻碑公園もじっくり見てきました。
(職場の花見で一度、行ったきり。しかも夜だったので何も見てませんでした。)

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母方の祖母の弟は24歳で戦死しています。

(18歳と思い込んでいましたが、数えの24歳でした。)
伯母に聞いたところ、支那事変で戦死したそうです。
実家の仏間に写真が飾ってあり、
戦死した日時も書いてありました。
長年住んでいたのに全然、目に入っていませんでした・・・。
そして写真の裏に何か書いてあるのでは?と額から外してみたら
それは写真ではなく、精密に描かれた絵でした。
(裏には何も書かれていませんでした。)

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母の10歳年上の姉は、戦時中、今の北朝鮮に住んでいました。

(母・子供4人で。ひとりは病気のため4歳で死亡)
祖父(伯母の父)は、衛生兵で、現在の韓国にいました。
なので祖父はすぐ日本に帰りました。
伯母たちは、38度線で仕切られてしまい、出る事が出来ず
約1年、草を食べるほどの極貧生活をし
祖母のいとこ夫婦と偶然出会う事で、脱出を試み
夜中に出発して、命がけで38度線を越えてきたのだそうです。
(伯母の強さはここにあるのかも?!)
そして、出水の実家の目の前には、兵舎があったらしく
Aコープ高尾野支店の駐車場にあるレンガの門柱は
当時の兵舎の門柱なんだそうです。
伯母が、大東亜戦争、支那事変とさらりと言っていたのを聞いて

当時はそう呼ばれていたのだと、歴史を感じました。
もっと時間をとって、伯母の話を聞いてみたいと思います。


違う世界が見えてきた

本を読みまくっております。

戦争って国際法というのがあり
一応、決まりがあるのを知りました。

宣戦布告、兵隊は軍服着用、武器は見えるように、
民間人は殺してはいけないなど。
戦争なんだから、なんでもありなのだと思っていました。
東京大空襲、広島、長崎の原爆投下は、明らかに戦争犯罪だと認識しました。

侵略の歴史を持つ国々では、「復讐権」という考えがあるようです。
目には目を、というのですね。
日本は原爆を2回落とされた。
なので日本は原爆を2回使っていい、そう思われているようなのです。
日本人にはビックリな発想ではないでしょうか。

戦争を知るようになり、政治関連のニュースが目につくようになりました。
戦争が終わって、日本は平和になった。ちゃんちゃん♪、じゃなかったんですね。
私はあまりにも知らな過ぎた。
まだまだ読みたい本がたまっています。
どんどん読みます。

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「新説・明治維新」西 鋭夫(著)

1987年、グラバー邸に隠し部屋があったのが
発見されたそうですね。
坂本龍馬の活動資金はどこから出ていたのか?
坂本龍馬はヒーローとしてあがめられていますが
実はグラバーの手先でした。
私はある程度、知っていたのですが
いろいろと詳しい説明がありました。

この講演記録よりも、巻末のCIAにスカウトされた時の
話がかなり興味深かったです!
(こんな現実があるのかと!)
日本にもかなりスパイがいるようですよ・・・。

西さんは、現在、スタンフォード大学フーヴァー研究所の教授で、
真珠湾攻撃時の機密文書が65年経って見られるようになり
その文書を戦後、初めて開いて研究された方です。
本を出版されてるので、近いうちに読んでみたいと思います。

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「ユキは十七歳 特攻で死んだ」毛利 恒之(著)

著者は脚本を書く方でした。
(「月光の夏」という映画の脚本を書かれています。)

特攻関係の取材で九州を訪れ、その時に「子犬を抱いた少年」の写真と遭遇します。
その少年が、荒木春雄さん(17歳)でした。
死を目前にして、やさしい微笑みを浮かべる写真に衝撃を受け、
この少年たちの事を知りたいと取材を重ね、
取材で得た内容のみを本にされたそうです。

荒木少年の生い立ち、飛行機への憧れ、飛行予科練習性として航空隊に入隊、
厳しい訓練、特攻への任務、万世からの出撃とページは進んでいきます。
(訓練はかなり厳しいもので、脱落する人もいたようです。)
家族との交流、家族へ宛てた手紙、読んでいて胸がつまりました。

出撃前に彼は、短い髪を切り、
飛行服につけてあった七二振武隊のマークを取り遺品としました。
父親宛ての封筒の表に、自らの手で「遺品在中」と書き記して。

あとがきに、「月光の夏」を見た17歳の高校生の感想がありました。
「きょうからのぼくは、きのうまでのぼくではない」

あぁ、本当にそうだなと思いました。
人は知ることによって、大きく変わっていくものだと思います。

万世基地の滑走路は、現在、県道277号線「吹上浜公園線」として
使われています。

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脱穀しました(^^)

掛け干ししてた稲を脱穀しました
でもまだ藁くずはとっていません。
こっちの方が時間がかかる~sweat02
新米までもうちょっとですhappy01

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幣立神宮へ

幣立神宮へ参拝と
旧友へ会うために熊本市へ行ってきました。
幣立神宮、入り口に立派な柱ができてましたshine

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熊本市に行ったのは、地震後、初めてでした。
崩れた熊本城の姿が悲しかったです・・・。
復興にはかなり時間がかかるようですが
復活を楽しみにしてますfuji

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二の丸駐車場の近くに
「神風連」の石碑がありましたsign01
この辺りに熊本鎮台があったそうです。
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甲冑を着たにゃんこちゃんがcat
「こてつ」ちゃんというそうです
とってもおとなしくて、おりこうさんでしたheart04

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「華のときは悲しみのとき」相星雅子(著)

図書館で借りてきました。
1992年発行なので、25年前に出た本ですね。

著者は鹿児島市在住で、晩年のトメさんに何度も会いに行き
取材を重ねました。
お孫さんの書かれた本とは、また違うトメさんを知ることができました。

トメさんには2人の娘さんがいらっしゃったのですが
なんと養女でした。
(おふたりは、本当の姉妹)
奥さんに先立たれ、幼い子を抱えている若い父親の事を知り
おふたりを養女にされたそうです。
トメさんは、取材時、娘さん達のために、それを認めようとしなかったそうですが・・・。
トメさんの懐の大きさに、改めてびっくりさせられました。

そして富谷食堂は、マイナスだったようです。
たくさんの人々が訪れるので、薄利ではありつつも
経営は大丈夫だったのだろうと思っていましたが・・・。
お店の経営というより、トメさんが慰霊のためにどんどん使っていたから、
のようです。
ご遺族から、灯篭を建ててほしいと現金が送られてきた時、
足りない分をトメさんが出したり、少しでもいいものをと
高い灯篭を作ったり。
ご家族からも、そこまでしないといけないの?と言われたそうです。
(とがめるというより、あきらめ半分みたいな感じで)
でもトメさんは、してあげたかったんでしょうね。
そんなお母さんが好きだったと、娘さんの言葉もありました。

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朝日新聞、いかんなぁ(-_-メ)

従軍慰安婦問題が朝日新聞の捏造記事から起こった事を
どのくらいの方がご存知だろう?

朝日新聞のお詫び(HP)
http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122337.html

私はオットから朝日新聞の記事が原因でと
聞いてはいたけれど、自分で調べてはいなかった。

トランプ大統領が韓国に訪問した時、
元従軍慰安婦という女性が同席したという記事を見た。
それで自分で調べてみようと思って
「従軍慰安婦 朝日新聞」で検索するといっぱい出てきた。


こちらの年表が分かりやすかったので、一部分コピペ。

わかりやすく簡単に解説するサイト
http://wakariyasuku.org/ianfu.html

1977年 元陸軍軍人の吉田清治が『朝鮮人慰安婦と日本人』を刊行。軍の命令により済州島で女性を強制連行して慰安婦にしたと告白する。

1983年 吉田清治、『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』を出版。韓国へ渡り、土下座して謝罪するなどのパフォーマンスを敢行する。(1996年に、吉田は上記著作がフィクションであったことを認めている

以後、朝日新聞がたびたびこの吉田清治の活動を取り上げ、賞賛し、吉田の証言が事実であることを前提にして記事を書くことで国内世論を形成。いわゆる「従軍慰安婦強制連行問題」を大々的に取り上げて政府を非難する。

それによりさらに力を得た吉田は、これ以後、世界各地で講演するなどの懺悔活動を行い、出版物の印税を含め多くの収入を得るようになる。(このような「懺悔屋」と呼ばれる商売人が当時吉田の他にも多数いたという)

1989年 吉田の上記の著作が韓国で翻訳されるが、済州島の済州新聞が数年の追跡調査の結果、吉田が証言したような「強制連行」の事実がなかったことを発表、「(吉田の著作は)日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物」であると批判する。

◎分かりやすかったサイト

iRONNA「慰安婦狩り」吉田証言を報じた朝日記者の心性
http://ironna.jp/article/516

zakzak慰安婦“捏造”吉田氏の長男が真相激白「父は誤った歴史を作り出した」
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160823/dms1608231140003-n1.htm

↑こちらは、吉田氏の息子さんのインタビュー記事。
吉田氏は執筆が終わるまで、済州島に行った事はなかったらしい。
どうやら、脅されていた?っぽい。

ちなみに南京事件も朝日新聞の捏造との事。
朝日新聞の記者、本多勝一という人が「中国の旅」という記事を書いたことから
始まった。

iRONNA本多勝一「中国の旅」はなぜ取り消さない
http://ironna.jp/article/769

朝日新聞、どう責任とるん?
社長が辞任したら終わり?

私は韓国の従軍慰安婦だったという女性をニュースで見た時、
心底、申し訳ないことをしたと思った。
うそだったなんて。
しかも大変な国際問題に発展してしまっていて。
国際問題にするために仕掛けたのだろうけど。


まー自分がこんな事を書くとは思ってもみなかったな。
100匹目の猿現象ってのがある。
政治的なことに、まったく関心がもてなかった自分の元へ
こういう情報が入ってきたという事は、
近いうちに「常識」がひっくり返るのではないかなーと感じている。